【聖火のキセキ沖縄】撮影後記

2つの国から感じた国旗というもの

 今回の「聖火のキセキ」の舞台は、沖縄。当時走った聖火ランナーたちのお話から、沖縄はこれまで取材をしてきた本土の聖火リレーとは違う意味合いがあったと感じました。

 

「自分が日本人だということを意識した」

「沿道にあふれる日の丸の波に感激した」

「聖火が本土と沖縄を繋いだ」

 

1964年アメリカ統治下にあった沖縄。この時に走った聖火ランナーの話は、主に日本を意識したものでした。聖火リレーは沖縄の人たちにとって、五輪開催を知らせる炎だけではなく、日本への帰属意識を呼び覚まし、その後の本土復帰の後押しにもつながった希望の炎でもあったと私は感じました。この愛国心とも言える感覚に触れた時にふと思い出したのが、大学生の時に留学したリトアニアでの独立記念日です。

 

1918年2月16日と1990年3月11日。ロシア帝国とソビエト連邦から独立したバルト三国の1つリトアニアは、この2日間を盛大に祝います。首都・ヴィリニュスに当時住んでいた私が目にしたのは、あちらこちらに掲げられているリトアニアの国旗。黄、緑、赤の3色旗が街中に飾られ、地元の人も国旗色のニット帽やマフラーなどを着こなし、その日を祝っていました。車には小さな国旗が飾られ、旗をなびかせて走っていきます。人、街、国全体が熱気に包まれていました。夜の記念式典では、観客が旗を振って誇らしげに国歌を斉唱し、老若男女が歓喜に浸り、寒さも忘れるほどの雰囲気だったことを今でも覚えています。あの誇らしげに国旗を振る彼らの姿が非常に印象的で、長年住んでいた日本では見たことがなかった光景でした。そして、彼らの誇らしさに少し羨ましさも感じました。私は、あの光景が54年前の沖縄で起きた聖火リレーと通ずるものがあると今回のロケで思ったのです。

 

独立記念日を祝うリトアニアの人々 ©︎安田

 

当時の沖縄での通貨は円ではなく、アメリカ軍票のB円。本土に行く時は、入国のためのパスポートを提示。祝日以外での国旗掲揚や国歌斉唱は自由に行うことが出来ず、国家斉唱と国旗掲揚もアメリカの後でした。しかし、聖火リレーがおこなわれている間、ランナーたちは日の丸を胸につけたユニフォームを着て堂々と走り、沿道では溢れんばかりの日の丸が振られていたのです。初日のゴール地であった奥武山公園陸上競技場では、聖火を迎えるセレモニーが行われ、日本の国旗掲揚と国歌斉唱が先に行われ、その瞬間は会場がどよめきに包まれたと言います。当時の沖縄の人は、自分たちで作った国旗を誇らしげに振っていたのではないでしょうか。当時の新聞や映像を拝見すると、その熱気が伝わってきます。「沖縄は日本の一部で、自分たちは日本人」長年抑え込んでいた感情が沸き起こっていたのではないかと想像しました。

 

1964年沖縄での聖火リレー ©︎沖縄県公文書館

 

沖縄とリトアニア。歴史も文化も全く違いますが、2つの場所を通じて、国への帰属意識や、国を思う気持ち、国民としてのアイデンティティー、そして国旗の役割について考えさせられました。

太平洋戦争で地上戦が行われ、県民の4人に1人がなくなったといわれる1945年の沖縄戦。その激戦から19年後の1964年には聖火リレーが行われ、さらに8年後の1972年に沖縄返還。今回、この激動の歴史に触れることができたのは、本当に貴重な経験でした。取材に協力してくださった皆様、本当にありがとうございました。わたしもこの歴史を後世に伝えていきたいなと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

安田 10月29日

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