【聖火のキセキ長崎】撮影後記

長崎で出会った一言

7月末に、「聖火のキセキ・長崎」の撮影で、九州は長崎に行きました。撮影地は、島原市、長崎市、佐世保市、そして、フェリーで五島列島と、移動の多いロケでした。6月の九州・中国地方での大雨災害があり、天候は懸案事項でしたが、幸い全日快晴。しかし、今年は猛暑を超える酷暑で、危機すら感じる暑さが待ち構えていました。シャワーのごとく汗がダラダラと垂れて、服はあっという間にびしょびしょ。豊かな自然の中で蝉たちが大合唱し、暑さは何倍にも感じる程でした。「熱中症」がすぐに頭に浮かぶようなギラギラした太陽の下、撮影に挑みました。スケジュール管理や撮影補助はもちろん私(アシスタントディレクター、通称AD)の役目ですが、それ以上に、出演者とスタッフへの水分・塩分補給を徹底。なんとか無事に撮影を乗り切れるようにと気を引き締めました。毎日自転車通勤で適度に運動はしていると思った私ですが、食事を済ませて宿に戻り、ベットに転がると次の瞬間はもう朝というほどにヘトヘトでした。

島原城

しかし、そんな長崎の撮影で、暑さも忘れる一言に出会いました。普賢岳が遠くに見える島原市で、元聖火ランナーの方を撮影している時、ランナーの母親にもお話を伺いました。その会話の中でさりげなく笑顔で語られたお母様の一言が、私の心に残りました。

 

「人の一生で、若い時に良き思い出があることは、宝ですからね」

 

これまでたくさんの聖火ランナーの方を取材し、「聖火ランナーとして走ったことは誇りであり、名誉なことでした」と多くの方が語ってくれます。もちろん、お母様のこの一言にもそういう意味合いがあったと思いますが、私には、それが平和を意味する言葉だと感じました。というのも、お母様の年齢が90代だと知っていたので、この言葉を聞いた途端、この方の青春はあの戦争の真っ只中だったのかと考えたのです。日本が負けたあの戦争。この8月で73年を迎えます。単純計算で、戦時中はお母様は20歳ぐらいだったのでしょう。もしかして、工場で毎日銃後で働かせられていたのか、真夏の太陽の下で竹槍訓練をしていたのか、空襲警報に怯えながら防空壕に避難したのか、いろいろな状況が私の頭の中をよぎります。そんな青春を経験していたと想像すると、お母様の言葉には、暑さも忘れてものすごく考えさせられました。

もちろん撮影中でしたので、結局そのことについて触れませんでしたが、今回はロケ全体で平和について考えさせられました。それは、長崎が世界で原子爆弾が落とされた最後の被爆地だからです。1945年8月9日112分、長崎市内に落とされた1つの原爆で、太陽表面温度3000℃から4000℃に匹敵するような灼熱の中で何万もの命が一瞬にして奪われました。そして、辛うじて生き残った人々も被爆に苦しみながら闘い、その後の人生を歩まざるを得ない。そういった戦争の歴史を持つ長崎では、やはり聖火にも「平和」という意味合いが強くあると事前取材でも感じましたし、実際にそういう背景をお持ちのランナーにも会うことが出来ました。

平和祈念像

そもそも、古代オリンピックが聖なる休戦であったように、現在のオリンピックは平和の祭典、つまりスポーツを通して平和を実現させるという意味があります。戦後、国際社会に復帰する形で行われた1964年の東京五輪。その聖火リレーは、長崎の人々にとってはもちろんのこと、日本各地でも「平和の象徴」として受け入れられていたのではないか。そういった中で、聖火を絶やさずに繋げて国立競技場の聖火台に灯すというのは、とても壮大で、当時重大な責任を感じながらランナーたちは走ったのだなと思います。

さりげなく言ったお母様のあの言葉。こういった日本の過去を伝えることができる人は年々少なくなり、いよいよ戦争の悲惨さや平和のありがたみについて真剣に向き合うことが私を含めた若い世代に求められていると思います。「聖火のキセキ」の制作に携わることが出来て幸せだと思うのは、自分の知らない日本の過去を触れることができることです。本やテレビ、ネットでも昔の日本を知ることはできるでしょうが、当時を体験した証言者と向き合って聞く話に勝るものはありません。そういった貴重な経験をさせてもらっていることに感謝をしつつ、今後の撮影にも臨んでいきたいと思います。今回は前回の撮影よりは動けたと思いますが、それでも凡ミスや状況把握ができなかったところがあり迷惑をかけてしまったので、次こそは!

11時2分で止まった時計

 

そして、自分が携わった番組を通じて少しでも宝であるランナーたちの思い出と平和を視聴者の皆様と共有できればと思います。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。

安田

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